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2015年1月12日月曜日

奈良県民に学べ!——世界よ、これが日本人だ

#奈良 #コラム #学生
ときに奈良県というところは、どうしてこうも偏った見方しかされないのだろう。ほとんどの人が「古都ならではの落ち着いた雰囲気だ」、「どうせ鹿と大仏しかないのだろう」、「なんか地味な感じがする」といったイメージを抱いている。実は、これらはすべて些細な側面に過ぎず、奈良県というものの最大の特徴は他に存在する。そんなこれまで知られることのなかった奈良県の真の姿に、このコラムでは迫っていこうと思う。

 まず今回の結論は、奈良の県民性は日本の国民性と非常に類似している、ということだ。日本の国民性と言えば、思いやりがある、仲間と協力して物事を成し遂げる、マナーを守る、謝ることができる、などの奥ゆかしい人柄がよく挙げられる。自己主張がないと否定的に捉える意見もあるが、良いところを素直に良いと言えないひねくれた考えこそが日本人の欠点だ。そんな日本人のイメージを最も体現した県民性を保持している県こそ、他でもない奈良県なのだ。

 根拠は2つある。まず、日本人の奥ゆかしさだが、奈良県民には古都の時代より受け継ぎし雅びやかで奥ゆかしい県民性が備わっている。遡れば卑弥呼の時代より日本を代表する文化を歴史に刻んできた奈良県(近年の研究で邪馬台国は今の奈良県の位置でほぼ間違いないと言われている)。その卑弥呼に代表される祈祷による国の統治、今なお世界に誇る日本の寺社仏教、奈良時代の貴族たちが築き上げた和歌文化、これらはすべて奈良県を中心に紡がれてきた。こうした日本文化の特徴こそが奥ゆかしさであり、その文化の繁栄によって、奥ゆかしさは奈良県民の心に根付いたのだ。

 もう1つの根拠は、先に日本人の欠点だと述べたひねくれた考えが、奈良県民のあいだに広がっているという事実だ。現代の日本において、奈良県民とひねくれ者を結びつけて考える人はほとんどいないだろう。しかし、時代が進むにつれて確実に、かつ着実に奈良の県民性を蝕んでいっている。その原因と目されるのが、現在の奈良県が置かれている地理的状況だ。

 現在の奈良県は、大阪に職場を構える人々のベッドタウンとしての役割が大きい。毎朝電車で大阪の職場へ行き、夕方仕事を終えると、そのまま繁華街などで食事を済ませ、家路につく——こういった日常生活が、奈良県のいたるところで繰り広げられている。実際、私の両親もこれに習った生活を送っていた。すると、次第に彼らの心の中に、ある心情が芽生えてくるようになる。それは、大阪府民に対するある種の劣等感だ。嫉妬心と言い換えてもいい。奈良県民は、毎日大阪との往来を繰り返すうちに、それまで奈良県民にはなかった豪快さ、自己主張の激しさ、といった大阪の県民性に憧れを抱き始めた。その憧れは、本来の奈良の県民性である奥ゆかしさとは真逆と言ってもいいほどかけ離れており、身につけることは(少なくともこれまでは)できていない。そんな大阪の、“今風”の県民性を目の当たりにした奈良県民に、大阪府民への劣等感が広がってきたのだ。

 だが、奈良県民はこれを黙って認めるわけにはいかない。彼らには歴史と共に培ってきた県民性に対するプライドがある。自我の強さが羨ましい、だが自分たちには備わらない。素直に受け止めることもできない。そんな状況下で、奈良県民が導き出した結論こそ、奥ゆかしさを誇示することだったのだ。自らの肯定とは、すなわち他者の否定である。望んだ道ではなかったにも関わらず、奈良県民はとうとう辿ってしまったのだ。憧れの否定という、まさに日本人的なひねくれ者への一途を。

 そして、ここまで論じてきた内容から察するに、日本人のこのひねくれたあまのじゃく的思想もまた、本来日本人が望んだ姿ではないのだろう。奥ゆかしさの文化は、西洋文化の襲来と共に色あせ始めた。しかし、当時の日本人たちは、それを素直に受け入れることはできなかった。てつはう(鉄砲)やキリスト教など、積極的に西洋の文化を取り入れた織田信長は、民衆から変人だと奇異な目で見られた。西洋との文化交易がいっそう盛んになった江戸時代には、幕府自ら鎖国によって新興勢力の断絶を断行した。教科書に載っている、こういった事柄への歴史認証が間違っているとは言わない。ただ、その背景には多少なりとも、憧れに対する嫉妬心があったのではないだろうか。それが、日本における国民性なのではないだろうか。



 最後に。このコラムを読み返してみて、褒めたり貶したり、支離滅裂な文章だと我ながら感じた。しかし、私はそこに問題があるとは微塵も思わない。何故なら私自身も、良いものを良いと素直に言えない、ひねくれた感性を持った、あまのじゃく的思想の、奈良県民であり、日本人なのだから。

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